バナナの立役者たち
バナナの知られざるストーリー
昭和17(1942)年、埼玉県生まれ。東京大学教育学部を卒業後、昭和40(1965)年に安宅産業株式会社(現:伊藤忠商事株式会社)入社。昭和52(1977)年より農産食品部農産課(当時)の課長に就任し、フィリピンでのバナナ生産事業の責任者を務める。昭和59(1984)年シーアイフルーツ株式会社社長に就任。その後、伊藤忠商事株式会社の東北支社長、取締役食料部門長、常務執行役員などを経て、平成14(2002)年、株式会社雪印アクセス(現:株式会社日本アクセス)代表取締役副社長に就任。代表取締役社長・会長、相談役を経て、Dole International Holdings株式会社代表取締役会長を務め、平成28(2016)年6月日本バナナ輸入組合理事長に就任。
昭和38(1963)年に発表された輸入自由化をきっかけに、キャッスル&クック社(現:ドール)は、
日本のマーケットへの進出を目指してフィリピンでの農場開発を計画しました。
日本での輸入業者として、同社は以前よりパイナップルの缶詰の販売で接点があった
伊藤忠商事に事業提携を持ちかけ、生産されたバナナを伊藤忠商事が
全量買い取りするという契約を昭和41(1966)年に締結しました。
さらに翌年には、キャッスル&クック社のグループであったスタンダード・フルーツ社、
伊藤忠商事の三社により、現地での生産を担うスタンフィルコ社を設立して計画を実現させました。
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- フィリピンの農場を視察する伊藤忠青果協議会のメンバー
伊藤忠商事は、日本での販売の受け皿として、
昭和42(1967)年に「伊藤忠青果協議会」を組織しました。
参加したのは、台湾バナナの専売業者だった京浜物産貿易や東京丸一青果貿易、
ジャパン・フルーツ、青果卸売会社である京都青果合同など。
協議会の誕生により、キャッスル&クック社が生産したバナナを伊藤忠商事が輸入して、
国内での卸売りを伊藤忠青果協議会が務める、という体制を確立し、翌年にはバナナの輸入をスタート。
いわゆる「伊藤忠ドール」時代がはじまったのです。
「ドールバナナ」を日本市場で拡大させるにあたり、二つの追い風がありました。
一つは、品質向上に取り組む姿勢です。キャッスル&クック社には、
高品質につながることなら新しいアイデアをどんどん取り入れるという柔軟性がありました。
例えば、手で運んで傷がつくことを避けるため、
農園にワイヤーを張りめぐらせてバナナを運ぶ運搬方法などです。
キャッスル&クック社と伊藤忠商事は品質向上に向けて何度も意見を交わしながら、
良いバナナをつくろうと努力していました。
もう一つは、国内の流通の仕組みが大きく変わったことです。
この頃、全国にスーパーマーケットが広がる動きが活発になり、至るところに大型店が出現しました。
それらの店舗の青果担当者がフィリピンバナナを推進してくれたことが、
「ドールバナナ」が全国へ広がる大きなきっかけとなりました。
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- 発動機を利用した散水装置。水路からの水を利用する
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- ワイヤーに吊るされパッキング場へ運ばれるバナナ
初めてのフィリピンでのバナナ生産には、たくさんの課題がありましたが、
中でも価格設定については非常に苦戦しました。
フィリピンと台湾とでは生産環境も天候も大きく異なるため、
これまでの台湾バナナにおけるノウハウはあまり参考にできません。
つまり、フィリピンバナナにおける生産コストや生産量、需要の動向を読むことが容易ではないのです。
とはいえ、主流である台湾バナナに対抗できる価格設定でなければならないのも事実。
前例も経験もない中、全量買い取りというリスクもあって、
その結果大変な損失を出してしまったことがありました。
損失が重なったことは、とうとう伊藤忠商事の経営問題にまで発展しましたが、
そのとき開かれた経営会議で、当時事業の担当役員だった戸崎誠喜専務と宇坪正隆取締役が、
将来のバナナ市場の広がりを見据えて事業の継続を強く進言し、
越後正一社長や瀬島龍三副社長をはじめとする経営陣を説得して、バナナ事業の継続を決定したのです。
その後、ドルと金の交換を停止して為替を変動相場制に切り替えたニクソン・ショックによって
為替が大きく変動するなど、安定したバナナ事業の推進は難航しました。
キャッスル&クック社との全量買い取り方式を継続するも、日本側で伊藤忠青果協議会の
収益分配の仕組みなどを整備することで、事業の安定に奔走したのでした。
昭和52(1977)年以降、フィリピン政府の政策により現地の農園が拡大し、
需要と供給のバランスが大きく崩れ始めました。生産されるバナナの量が多すぎたのです。
供給量を調整して日本国内の小売価格の安定を維持するために、
私も現地へ出向き、やむを得ずチョップダウンしなければならないこともありました。
チョップダウンとは、バナナを切り落として捨てることを意味するのですが、
生産者が立派に育ててくれたバナナを廃棄するというのは、大変心が痛みました。
これは産地で一定の罰金(ペナルティ)を払って廃棄し、
過剰輸入による日本国内での損失をミニマイズするという窮余の策でした。
私がバナナ事業を担当した中で、今でも忘れられないできごとの一つです。
その後、フィリピンバナナの生産量と需要のギャップがますます広がったため
価格変動は激しさを極め、いよいよ全量買い取り方式を続けていくことが難しくなりました。
そして昭和57(1982)年、伊藤忠青果協議会は解散し、
伊藤忠商事も日本での販売権をキャッスル&クック社に返上。
世の中の移り変わりによって、伊藤忠ドール時代は幕を下ろしたのです。
しかし、同年にキャッスル&クック社が日本法人(現:ドール)を設立したあとも、
伊藤忠商事が輸入事業を担い、キャッスル&クック社が旧伊藤忠青果協議会の会員社を
中心とした卸売業者に販売を行う、というかたちで伊藤忠商事との関係は続いていきました。
キャッスル&クック社と伊藤忠商事がともに苦難を乗り越え、
お互いの功績を認め合っていたからこそ成し得た関係だと思います。
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- フィリピン・ミンダナオ島。
現在のドールのバナナプランテーション
- フィリピン・ミンダナオ島。
バナナは保存がきかない青果物でありながら、
伊藤忠ドール時代から今日に至るまで、安定して低価格を保っています。
私たちが今、いつでもおいしいバナナを食べられるようになったのは、
苦境に耐えながら日本のバナナ市場を築き、
年間を通して供給できる体制をつくってくれた先人たちの活躍によるものです。
近い将来、日本には人口増加による食糧難の時代がやってくるといわれています。
その時、年間を通して生産、供給できるバナナは、
私たちの食生活を守る救世主となることでしょう。